【第1回】 |
近年、ネパールに於て王制が廃止された。この事件を一つのヒントとして、王制と日本の天皇制度を対比し、その特質を考えてみたい。 |
【第2回】 |
初期の大王は、中国側の正史に「倭の五王」として登場する。王位継承儀礼として古墳で殯(もがり)が執行される。その主宰者が殯宮奉斎女王で、古代に女帝が頻出する背景をなす。 |
【第3回】 |
継体・欽明朝内乱と壬申の乱、皇親政治の出現。大臣が置かれないという典型的な大王の専制政治。「大君は神にしませば」と詠われるが、奈良朝諸反乱と道鏡事件で破綻。皇統は天武系から天智系に逆戻りする。 |
【第4回】 |
光仁・垣武両天皇の登場を機に、即位と践祚が分離し、次で薬子の乱によって敗者出家制が成立する。この二つの事象は、皇位継承にさいしての安定装置と言ってよく、天皇家の流血事件は跡を絶つ。 |
【第5回】 |
薬子事件で蔵人頭となった冬嗣、征夷と造都の中止を主張した緒嗣、藤原氏に相次ぎ登場した二人によって、執政家としての基礎がととのえられ、やがて天皇の不執政が慣行化される。 |
【第6回】 |
858年、8才の清和天皇が践祚し、幼帝を後見する太政大臣として良房が任じられる。やがてこの地位は「摂政」として制度化される。幼児でも勤まる天皇の地位は、統治から離れ、時間と空間の抽象的支配者に変貌する。 |
【第7回】 |
884年、陽成天皇が廃立され、55才の光孝天皇が践祚。前摂政基経が優遇措置として関白に任じられる。関白に付与される内覧機能がここで確定、摂政と関白の別、摂関制度の骨格が明らかとなる。 |
【第8回】 |
897年、宇多天皇は大納言時平と権大納言道真の二人を内覧(准関白)に任じた。これは摂関に任ずべき大臣資格者が不在のためであったという。4年後に道真は失脚するが、宇多上皇はついに時平を摂関には任じなかった。 |
【第9回】 |
930年、朱雀天皇践祚し、忠平が摂政に任じた。この忠平の下で、筆頭公卿が一上(いちのかみ)となり太政官の政務に当った。下って967年冷泉天皇が践祚したが病弱のため、関白実頼が准摂政に任じられた。 |
【第10回】 |
王権の代行としての摂政、王権の補佐としての関白の地位が確定し、やがて切れ目なく摂関常置の時代となり、道長・頼通の全盛期に至る。しかし武家が抬頭し、寺社の嗷訴が激化し、律令制と天皇・摂関では対応不可能となる。 |
【第11回】 |
村上天皇の崩から殯の儀礼は行われなくなった。1036年の後一条天皇の崩去で明かとなるが、在位中の天皇が崩じた時、その死が公表されず「如在儀」として譲位の形式が採られ、然る後、天皇の喪が公表されるようになった。 |
【第12回】 |
頼通の子女に皇子が生れず、摂関家に後見されない後三条天皇が践祚し、親政が行なわれ、摂関政治は後退する。数年後に継嗣となった白河天皇に至ってそれは顕著となり、1086年院政が始まり、白河上皇が専制君主となる。 |
【第13回】 |
院政下では「天子は東宮の如し」といわれ、天皇の不執政は摂関期以上に著しい。幼帝が常態となり、六条天皇のように満0歳の天皇も現れた。鳥羽上皇の崩去を機として保元の乱が起り、平治の乱後、武家の平氏政権が成立する。 |
【第14回】 |
平治の乱以後、武家による上皇の押込めが頻発する。清盛も後白河上皇を幽閉するが、以仁王の挙兵を招き、1085年平家は滅亡した。鎌倉に政権を開いた頼朝は、後白河に押込をちらつかせて脅迫し、守護地頭の設置を獲得する。 |
【第15回】 |
後白河の跡を嗣いだ後鳥羽上皇は、実朝を右大臣に任じ、公武の融和が実現した。しかし実朝暗殺後、執権北条義時と対立した後鳥羽上皇は1221年討幕の兵を起して敗れ(承久の乱)、以後幕府は皇位をも左右するに至る。 |