【第1回】 |
今回と次回とで、元寇とその背景、日本側の対応等を検討する。今回はまず文永の役(1274年)の実情、神風は果たして吹いたのか、戦闘は何日間に亘ったのか等、『八幡愚童訓』により懸った通説を批判しつつ見ていく。 |
【第2回】 |
前回に引続き、弘安の役(1281年)に至る政治過程、元寇防塁の構築、本所一円地の徴発権の勅許等、挙国一致の防禦体制がどう編成されたかを中心に検討し、いわゆる“神風”などは勝敗に関係なかったことを論証する。 |
【第3回】 |
リーグニッツ(ワールシュタット)の戦いを中心に、西欧諸国とモンゴル軍の角遂の経過を見ていく。蒙古軍がドイツの城壁都市を攻略し得なかったこと、その結果、西征軍はハンガリーに退却せざるを得なかったことを明かにする。 |
【第4回】 |
イル汗国とマムルーク朝エジプトとの対決の次第を確認し、蒙古軍は連戦連敗で、ユーフラテス河以南を侵略できなかった事実を明かにする。次で蒙古軍を圧倒したエジプト軍の強さの背景を考えたい。 |
【第5回】 |
1~4回の授業を回顧し、日本・ドイツ・エジプトの三地域が封建制の盛期にあった点を確認し、蒙古に蹂躙された地方は(中国・ロシア・ペルシア等)官僚制の社会か、あるいは封建制が未熟であったことを確認する。 |
【第6回】 |
封建制の語源、およびFeudalismの語源を検討し、とくに日本に於るその用例を明らかにしたい。封建制を現代の意味で使い始めたのは頼山陽であること、Feudalismを封建制と訳したのは福沢諭吉であることを確認する。 |
【第7回】 |
日本に封建制があったのか否か、明治中期まで学者は懐疑的であったが、日露戦争後、日本の国力を自覚した福田徳三・三浦周行・中田薫らは、揃って日本中世は封建時代であったと言明するに至った。 |
【第8回】 |
封建制に対する価値判断。明治中期までは、封建制=門閥制度と罵られ、旧弊古陋の悪しきものと見られていたが、後期になると封建制は歴史の進歩に資するものという傾向が出てきた。 |
【第9回】 |
封建制の歴史的評価に先鞭をつけたのは、大正期に渡欧した作家の島崎藤村である。彼は渡欧中に諸港が尽く英国の植民地化しているのに驚き、何故日本だけがそれを免れたかと考え、日本が封建制を経ていたことに思い至る。 |
【第10回】 |
小泉八雲、マードック、ランプレヒト、カール=マルクス、マックス=ウェーバーらの日本観と封建観。 |
【第11回】 |
封建制(Feudalism)の明快な概念規定を行った、ハインリヒ=ブルンナーとオットー=ヒンツエの学説。 |
【第12回】 |
敗戦直後に捲き起った日本論壇の猛烈な封建制バッシングの様相。 |
【第13回】 |
ウィットフォーゲルは、所謂「水の理論」(東洋的専制主義)の構想の過程で、日本と欧州の封建制が、多数中心型で私有財産に基礎をおく工業社会を生み出したと規定した。 |
【第14回】 |
ほぼ同じ頃、日本の文化人類学者梅棹忠夫も、ウィットフォーゲルと同趣旨の見方を含む「文明の生態史観」を公表し、封建制を評価した。 |
【第15回】 |
その後、駐日米大使のライシャワーや西洋史家の堀米庸三が、封建制と近代化との相関について言明し、日本論壇の封建制バッシングもようやく下火となった。 |