Web Syllabus(講義概要)

平成29年度

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日本史概説 II (教職) 今谷  明
選択  2単位
【経営】 17-1-1310-1954-10A

1. 授業の概要(ねらい)

 前期の日本史概説Ⅰに引続き、武家時代の天皇の諸問題を講述する。摂関期の天皇は藤原北家に対し事を構えようとはしなかったが、武家時代の天皇はしばしば武家打倒の運動を起した。鹿ヶ谷の変・承久の乱・正中の変・元弘の乱等々である。これに対し歴代の武家は、主謀者の上皇や天皇を押込め、廃立を行なったりはしたが、天皇家の廃絶を計ったりはせず、天皇制度は維持され存続した。これは何故なのか。一言で述べれば、武家には天皇が必要だったからであるが、この問題を、室町将軍三代義満の王権簒奪計画に則して考察したい。
 義満以降、天皇の地位を廃しようとした権力者はなく、かの信長でさえ、正親町天皇に圧迫を加えはしたが、廃立に追込むことは出来なかった。こうして天皇は、武家政権(幕府)に正統性を付与する唯一至高の存在として、江戸末期に至る。明治以後の天皇については、対象としない。

2.
授業の到達目標

 歴代武家がなぜ天皇を必要としたのか、天皇家がその存続の危機をどうして回避することが出来たのか、が認識理解し得れば、おおむね可とします。

3.
成績評価の方法および基準

 筆記試験により評価する。

4.
教科書・参考書

 今谷 明 著『室町の王権』(中公新書)

5.
準備学修の内容

 高校で日本史を履修した者は、教科書について復習しておくことが望ましい。

6.
その他履修上の注意事項

 授業中の私語は厳禁。

7.
各回の授業内容
【第1回】
 承久の乱後、幕府は乱の主謀者を含む三上皇を島流しとしたが、院政と天皇の制度はそのままとし、後鳥羽の同母兄行助入道親王を院政の主(治天の君)とし、その子後堀河を天皇とした。このような制度存置の背景を問う。
【第2回】
 元寇前後の天皇と院政。幕府は天皇家から外交権を奪ったが、時宗が後嵯峨上皇に同情したことから皇統は分裂した(両統迭立)。なお、元寇に対応した挙国一致体制が急速に構築された背景にも言及したい。
【第3回】
 後醍醐天皇の討幕運動と建武新政。両統迭立による幕府の皇位操作に不満の天皇は、正中の変・元弘の乱を起し、幕府を打倒する。しかし摂関も将軍も廃止した建武政府は、たった2年半の短かさで倒壊した。
【第4回】
 南北朝の動乱は、天皇の親政か上皇の院政かという、王権の態様をめぐる戦争であった。観応の擾乱後、神器も上皇も南山に拉致され万策尽きた幕府は、広義門院(後伏見后)を治天に仰ぎ、神器なしで後光厳天皇を擁立する。
【第5回】
 義満は南北合一の余勢を駆って、後円融上皇の崩後、上皇が帯有していた一切の権威・権限を自ら接収して、事実上の“院政”を展開する。さらに明の建文帝に入貢して「日本国王」に冊封され、次男義嗣を皇位にと狙う。
【第6回】
 義嗣の皇位を見届けず急死した義満に、後小松天皇は“太上天皇”の尊号を与える。しかし斯波義将ら有力守護は一致してこれを返上し、簒奪はついに未遂に終った。史上空前の「天皇家乗っ取り」失敗の背景を考察する。
【第7回】
 くじ引きで将軍となった義教の非正統性を鳴らして、関東公方足利持氏は1438年叛旗を飜えす(永享の乱)。これに手を焼いた義教は、後花園天皇に哀願して治罰の綸旨(朝敵追討)を奏請、漸く鎮圧にこぎつけた。
【第8回】
 幕府が弱体化すると天皇の権威に縋る。公武の相互依存関係である。以後、応仁の乱を通じ15世紀末葉まで、治罰の綸旨が頻発される。居ながらにして天皇家は権威を回復するのである。
【第9回】
 もはや天皇を支えられず、足手まといにさえ感じる幕府・細川・三好氏に替り、天皇家を支えたのは戦国大名であった。彼等は天皇から官途というステータスを拝領し、隣国と張合うと共に、内裏修復など莫大な献金を行なう。
【第10回】
 信長は正親町天皇と対立しつつもその価値を見抜き、織田軍団が不利になると勅命講和を奏請して時間かせぎをする。その極めつきは、1580年の本願寺との和睦である。晩年は将軍任官・幕府開設を目指すも、ついに中道に倒れた。
【第11回】
 秀吉は信長と異り、素朴な尊皇家であった。小牧・長久手の役で家康に敗れ、将軍任官を断念した秀吉は、一転関白(天皇の代官)として全国統一を目指す。
【第12回】
 元和堰武の後、江戸幕府は朝廷への圧迫を強化する。紫衣事件や春日局参内に逆鱗した後水尾天皇は、慣例を破り、幕府に無断で明正女帝に譲位する(俄の御譲位)。これは公武関係の破綻と受止められ、幕府は修復に苦慮する。
【第13回】
 江戸時代の公武関係を概観。相互依存関係は相替らずで、家綱・家継等、幼将軍の出現ごとに幕府は皇女降嫁奏請をくり返す。一方で水戸学・国学を拠点に尊皇思想も勃興し、警戒した幕府は“尊号事件”により抑えつけを計る。
【第14回】
 レザノフ長崎来航に対し、老中戸田氏教は「勅許がないから」として通商を拒否。フヴォストフ事件以後、幕府は対外紛争を朝廷に通告。こうして外圧を契機に天皇の外交干与という慣例が形成される。
【第15回】
 尊皇攘夷運動を抑え切れなくなった幕府は、ペリー来航を機に解体に向う。井伊直弼の通商断行も桜田門外の変で挫折。公武合体・文久政変とあわただしい動きの果てに、土佐藩を中心に大政奉還論が提起される。