【第1回】 |
信長の安土城下で、セミナリヨ・コレジオ等の学院が設けられ、西欧の学芸が導入されたが、その後の禁教令で頓挫する。家康は『貞観政要』等、中国古典を印刷し、林羅山の論語講義に船橋秀賢の訴を斥ける等、学問の自由を保証。 |
【第2回】 |
学者一代限りの学校である“私塾”の形成が近世学術を支えた。木下順庵は京都に雉塾を、伊藤仁斎は堀川に古義堂を、山崎闇斎も崎門塾を開いた。仁斎の古学派は幕府官学の朱子学を批判する学派だが、その存在は許されていた。 |
【第3回】 |
幕府や諸藩から危険視された学者の例。山鹿素行・熊沢蕃山は処罰され、山崎闇斎は土佐で排仏を唱えて藩主の忌避に触れ、京都に逃れた。しかし概して幕府は学者の講義を大目に見ていた。 |
【第4回】 |
荻生徂徠の儒学。徂徠は幕藩制の将来に危機感を抱き、改革を唱えたが結局その予言は外れ、幕府も徂徠の提言を採用しなかった。 |
【第5回】 |
中国古代の聖賢に還るという徂徠派の主張が外れたことから、中国に対する批判が起った。平賀源内は、清朝は夷狄であり「主の天下をひったくる不埒千万なる国」と非難し、朱子学は行詰りをみせていく。 |
【第6回】 |
四大人から宣長・篤胤に至る国学の展開。 |
【第7回】 |
シーボルトが長崎郊外に設けた鳴滝塾。前野良沢らによる蘭学の発生。 |
【第8回】 |
1726年、大坂に懐徳堂が設けられ、官許の学問所としてスタートし、好学の富商らがこれを支えた。天文学の麻田剛立・間重富・高橋至時らを輩出し、やがて幕府の測地事業等に反映する。 |
【第9回】 |
さきに秀賢に訴えられた林羅山は、家康~家綱4代の将軍に歴仕し、江戸忍岡に塾を開き、湯島聖堂に発展した。将軍綱吉は1690年昌平黌を開く。 |
【第10回】 |
松平定信は寛政異学の禁を断行すると共に、1792年、旗本御家人とその子弟を対象とした“筆算吟味”なる事務能力試験を始めた。太田南畝・近藤重蔵らはこのテストにより登用された。 |
【第11回】 |
備前の閑谷黌はじめ、各藩では地方の人材形成を目的として藩校を設立し、また筆算吟味も各藩に導入され、いわゆる“地方巧者”を輩出した。 |
【第12回】 |
寺子屋(手習塾)による庶民教育。19世紀初頭、フヴォストフ事件で捕囚となったロシア海軍のゴロヴニンは、牢番が小説を音読するのに閉口した。庶民の識学率の高さに驚歎したのである。 |
【第13回】 |
いわゆる「文化の地理学」の成立。間宮海峡の発見。伊能忠敬による子午線の測定と全国測地、伊能図の完成。後者は若年寄堀田正敦のサポート抜きでは考えられないが、背景に幕府の能力主義・業績主義があった。 |
【第14回】 |
緒方洪庵は江戸で宇田川玄真に学び、長崎遊学後、大坂に適塾を開く。同塾出身の福沢諭吉は、幕府に雇われ三度の外遊の後、江戸の慶応義塾を開いたがこれが近代的大学の先駆となる。 |
【第15回】 |
近代西欧の知識人は露骨に大衆蔑視を示したが、日本近代はエリートによる大衆への学問奨励から始まったように、知識人と大衆には親和性があった。その背景に、近世に大衆とエリートの間に融通が絶えずあったことが特筆される。 |