Web Syllabus(講義概要)

平成29年度

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日本文化史 II 今谷  明
選択  2単位
【史】 17-1-1310-1954-20A

1. 授業の概要(ねらい)

 日本文化史Ⅰに引続き、近世以降の日本学芸史について講述する。中世以来の学芸が、公家の家塾や寺院に於て維持されてきたのに対し、近世の学芸は、学者一代ごとの「私塾」を中心にして発達した。木下順庵の雉塾、伊藤仁斎の古義堂、山崎闇斎の塾等が儒学系統の塾として知られる。博士家の末裔たる船橋秀賢は家康に一般儒塾の取締りを訴願したが、家康は受理せず、講義の自由は保障された。但し山鹿素行や熊沢蕃山等、幕政の忌避に触れる学説は制限されることもあった。開塾は朱子学に限られず、宣長の鈴屋、洪庵の適塾の如き国学・蘭学の塾も行われ、宣長の如きは通信教育による門弟も養成した。一方江戸の昌平黌、大坂の懐徳堂が官許の学問所としてスタートし、特に後者は麻田剛立・間重富ら天文学者を輩出し、伊能忠敬の地図にも反映した。明治以降の急速な欧化(近代化)が可能であった背景は、大学の如き学問統制機関を持たず、雑多な私塾が乱立していた学問環境に関係がありそうだ。

2.
授業の到達目標

 江戸時代の庶民の識学率の高さ、明治の急速な大学の発展の背景には、実は鎖国下の江戸社会に於る私塾の自由な発達があり、身分制度に把われぬ一定の能力主義があったことを認識出来れば可とする。

3.
成績評価の方法および基準

 授業内試験の出来によって評価する。

4.
教科書・参考書

 授業の前に予め参考書を告げ、また授業中に適宜配布する。

5.
準備学修の内容

 江戸時代の思想史について、図書館等で学習しておくのが望ましい。

6.
その他履修上の注意事項

 今のところ講義形式の授業を考えているが、受講者数によっては演習形式に切り換えることも考慮する。

7.
各回の授業内容
【第1回】
 信長の安土城下で、セミナリヨ・コレジオ等の学院が設けられ、西欧の学芸が導入されたが、その後の禁教令で頓挫する。家康は『貞観政要』等、中国古典を印刷し、林羅山の論語講義に船橋秀賢の訴を斥ける等、学問の自由を保証。
【第2回】
 学者一代限りの学校である“私塾”の形成が近世学術を支えた。木下順庵は京都に雉塾を、伊藤仁斎は堀川に古義堂を、山崎闇斎も崎門塾を開いた。仁斎の古学派は幕府官学の朱子学を批判する学派だが、その存在は許されていた。
【第3回】
 幕府や諸藩から危険視された学者の例。山鹿素行・熊沢蕃山は処罰され、山崎闇斎は土佐で排仏を唱えて藩主の忌避に触れ、京都に逃れた。しかし概して幕府は学者の講義を大目に見ていた。
【第4回】
 荻生徂徠の儒学。徂徠は幕藩制の将来に危機感を抱き、改革を唱えたが結局その予言は外れ、幕府も徂徠の提言を採用しなかった。
【第5回】
 中国古代の聖賢に還るという徂徠派の主張が外れたことから、中国に対する批判が起った。平賀源内は、清朝は夷狄であり「主の天下をひったくる不埒千万なる国」と非難し、朱子学は行詰りをみせていく。
【第6回】
 四大人から宣長・篤胤に至る国学の展開。
【第7回】
 シーボルトが長崎郊外に設けた鳴滝塾。前野良沢らによる蘭学の発生。
【第8回】
 1726年、大坂に懐徳堂が設けられ、官許の学問所としてスタートし、好学の富商らがこれを支えた。天文学の麻田剛立・間重富・高橋至時らを輩出し、やがて幕府の測地事業等に反映する。
【第9回】
 さきに秀賢に訴えられた林羅山は、家康~家綱4代の将軍に歴仕し、江戸忍岡に塾を開き、湯島聖堂に発展した。将軍綱吉は1690年昌平黌を開く。
【第10回】
 松平定信は寛政異学の禁を断行すると共に、1792年、旗本御家人とその子弟を対象とした“筆算吟味”なる事務能力試験を始めた。太田南畝・近藤重蔵らはこのテストにより登用された。
【第11回】
 備前の閑谷黌はじめ、各藩では地方の人材形成を目的として藩校を設立し、また筆算吟味も各藩に導入され、いわゆる“地方巧者”を輩出した。
【第12回】
 寺子屋(手習塾)による庶民教育。19世紀初頭、フヴォストフ事件で捕囚となったロシア海軍のゴロヴニンは、牢番が小説を音読するのに閉口した。庶民の識学率の高さに驚歎したのである。
【第13回】
 いわゆる「文化の地理学」の成立。間宮海峡の発見。伊能忠敬による子午線の測定と全国測地、伊能図の完成。後者は若年寄堀田正敦のサポート抜きでは考えられないが、背景に幕府の能力主義・業績主義があった。
【第14回】
 緒方洪庵は江戸で宇田川玄真に学び、長崎遊学後、大坂に適塾を開く。同塾出身の福沢諭吉は、幕府に雇われ三度の外遊の後、江戸の慶応義塾を開いたがこれが近代的大学の先駆となる。
【第15回】
 近代西欧の知識人は露骨に大衆蔑視を示したが、日本近代はエリートによる大衆への学問奨励から始まったように、知識人と大衆には親和性があった。その背景に、近世に大衆とエリートの間に融通が絶えずあったことが特筆される。